アカウントに死が来たとして、その命はいつ尽きるのか
こんばんは、木曜日担当の土井です。
先週アメイジングスパイダーマンの事を書いたのに録画し忘れてました……。
こういう忘れっぽいところが私の悪いところなんですよね。
ブログを書くこともさっき思い出して慌ててはてなブログにログインしたくらいです。
そして困ったことに、さっき思い出したくらいなので何を書こうか決まっているはずもないわけです。
さてさて何を書いたものかと考えたのですが、今日は「ブログに書くには短いか……」と思いやめていたものを書いてみることにします。
今回のテーマは『死』です。
それも生き物ではなくインターネットの。
もっと言えばtwitterのbotという類のアカウントの死についてです。
botとは何かというと、本来手動でしか書き込みができないtwitterで外部のサービスを使い決められた言葉を自動でつぶやくように設定しているアカウントのことです。
本来botは全自動なので止まったりはしないのですが、時々あるときを境にピタリとつぶやかなくなったりするんです。
おそらく調整をするためにbotの機能を停止したのでしょう。
でもアカウントのプロフィールに『〇〇のbotです』なんて書かれているそれが止まったまま動かなくなったのを見ると「botであるこのアカウントがつぶやかなくなった今、botとしての命が消えてしまったも同然なのだな」なんて思ったりするのです。
botとして生まれてbotとして生きてきたアカウントがつぶやくことをやめる。
きっとこれはアカウントにとってのアイデンティティーの死と同義だったりするんじゃないですかね。
いつもみたいに考えるとしたら……
「アカウント自身にはどうすることもできない、アカウントの管理者から自分の存在価値を取り上げられる。これはアカウント自身にとって怒りなんて言葉では表せないような感情なんでしょうね」
といったところでしょうか。
……でも実際のところ、怒りを感じるほどの余裕がアカウントにあるのはほんの一瞬だけで、現実を理解したら絶望するしかないんでしょうね。
本当の絶望は彼から見えるタイムラインが止まって景色が変わらなくなったときなのかも。
そういえば毎回書いていて思うんですけど、当然のようにいろんなものに意志があるように書いてますがこれって危なかったりするんですかね?
想像も大概にしたほうがいい時って私の場合は多分わりとあるんでしょうね。
それでは今日はこのあたりで。