東洋大学白山ラジオサークル「FAM」

こんにちは。東洋大学白山ラジオサークル「FAM」のBLOGです。

水中、しかし苦しくはない

こんばんは、M藤です。書くことねええって毎回毎回思うんですけど、それも考えてみればおかしな話でもう20年以上生きてるんだから脳の中に蓄積されている記憶、情報の量はかなりのもののはずなんですよね。それでも毎回書くことがないと思うということは、ようするに書きたい、読んでもらいたいことがない、っていうことなんでしょう。そりゃ昨日一日の日記を微に入り細に入り書いていけばとんでもない文字量書けるんでしょうけど、そんなもん誰も読みたくないだろうし俺だって書きたくないよ、っていう。

それでもとりあえず書かなきゃなんないんで、まあ、例のごとく本棚を漁ってみてばーんと目に入りましたは伊藤計劃さんの『虐殺器官』です。これかなり売れた本なので知ってる人多いと思います。作者の伊藤計劃さんは将来を有望視されながらも若くしてがんで亡くなられた方で、手元にあるSFマガジンの2009年2月号をめくってみると生前のインタビューが掲載されていたりして、ああ、ほんの5年前のことなんだなあと思ったり。

僕が『虐殺器官』を読んだのは高校二年のときで、伊藤計劃さんはすでに亡くなられていました。四月のクラス替えをしたばかりの教室の隅で読んでいたら前に座っていたYという男が本の帯に書いてある宮部みゆきさんの「私には、3回生まれ変わってもこんなにすごいものは書けない」という推薦文を見て、「俺もそれ読んだんだけど、多分宮部みゆきはあと一回死ねば書けると思う」と言ってきたのを今でも覚えています。Yは僕が今まで読んだ本は全て読んでいるし読む予定の本も全て読んでいるし授業中には「日蓮宗の全て」みたいな僕が一生読む予定のない本を淡々と読んでいる、という大変な読書家で、今でも付き合いがある高校時代の友人の一人なのですが、彼や他の読書家の友人と遊んでいるうちに僕が悟ったのは「たくさん本を読むやつは大体不謹慎で下衆い」ということです。例えば小さな女児が誘拐されたというニュースとともにテレビに映し出された被害者の女の子の写真を見て「誘拐されるわりには可愛くない」などという冗談を平気で言ったりする。これはいったいどうしてなのだろうな、と考えるに、やはり読書という行為の性質が関係しているのでしょう。

本を読むというのは、ようするに言葉の力によって現実を異化するということです。我々は言葉によって現実を把握している以上、言葉による構築物である本を摂取すれば必ず現実の認識に影響が出ます。例えば、ある本を読んだ後には人間と他の動物との区別の仕方が分からなくなってくる。例えば、ある本を読んだ後には生の反対が死であるとは到底思えなくなってくる。読書家というのは要するに既存の現実の認識から抜け出したくて仕方ない人々なのです。

なぜこのことが読書家の不謹慎なふるまいと通じるのかといえば、それは現実の異化という行為が社会的道徳としばしば対立するからだ、と僕は推測します。

女児誘拐のニュースを見ているとき隣の人間が「はやく見つかるといいね」と言えば、我々は安心します。それが予想された、その場で言われるべき言葉だからです。しかし「誘拐されるわりには可愛くない」と言われれば、我々は恐怖しさえします。そのようなことは道徳的には言われるべきではない。ですが、このとき現実の異化はまぎれもなく成功しているのです。「はやく見つかるといいね」という紋切型の言葉を捨てて「誘拐されるわりには可愛くない」という言葉を発するとき、そのニュースは「ありふれた誘拐事件のひとつ」から「ある一人の女の子が誘拐された、ただひとつの事件」へと姿を変えるのです。

先ほど述べたように本を読む人間は常に現実が持つ意味を変化させることを望んでいます。同じ言葉であっても昨日と今日では違う物を指している、という状況を望んでいます。それゆえしばしば社会的な道徳観と対立しますが、それは仕方のないことです。そうやって物事の意味を変化させ続け、その中に自らの生を位置づける瞬間にだけ、「自由」というものは宿るのだと思います。Yが「多分宮部みゆきはあと一回死ねば書けると思う」と言ってきた時、不謹慎だと思いはしましたが、同時にとても面白かった。死ぬということに「あと一回」もなにもないのに、Yは「あと一回死ねば書けると思う」と言い、その一瞬だけ僕にとって「死」は重苦しいものではなくなったのです。

 

最近暑くて思考がやばい。『drops garden』っていう可愛い女の子が(水着+宇宙服+ドレス)÷3みたいな恰好でずっと水中泳いでるDVD見たんですけど、全く性的な感じが無くてなんとなく涼しい気分になれます。おすすめ。あ、代表が近日ラジオ第一回目アップするって言ってました、みなさんお楽しみにー。