もしも願いが叶うなら
雨の日っていいですよね。どうも、木曜日担当の土井です。
雨の音を聴きながらだと普段と同じことをしていても、なんだかいつもよりも楽しく感じます。
そういえば皆さんは七夕で短冊は書きましたか? 私は大学にあった短冊に書きました。何を書いたかは来週配信されるユタ待ちで話しているのでここでは書きません。今日はユタ待ちで詳しく話さなかった方の話をしますね。
願い事をするにはいろいろな方法があります。神社にお参りに行ったり短冊に書いたりミサンガをつけたり。私もそういったことは人並みにしてきました。でも「願う」ということはたくさんしましたが、その内容は限りなく薄く同じようなものばかりでした。
「やりたいことができていますように」
「その時したいことができていますように」
「楽しく過ごすことができていますように」
私が今まで書いてきた短冊をもし今集めることができて並べたとしてもこんな願いしかおそらく無いでしょう。別に願い事がなかったから書いたのではないのです。どうせかなうわけがないだろうと思って書いたわけでもないのです。むしろその逆です。短冊を書くとき私は「自分の願いもみんなの願いも全て叶ったらどれだけいいだろう。みんなの願いがどうか叶いますように」、そう思っています。そうなることを本当に切に願っているんです。そして、強く強くそう思うがゆえに毎回、「もし私が書く願いが本当に叶うとして、この願いが叶うころの私はどうなっているんだろう? もしかしたらこの願いが未来の私にとっては叶わなくてもいいことなんじゃないか? こんなにも叶ってほしい願いだけれども、それを未来の私も望んでいるかは分からないじゃないか」なんて思うのです。小さい頃の自分が考えすぎたせいで思いついただけの考えで、もっと気楽でいいじゃないかって自分でも思います。でもいざ願いを決めようとすると頭の中でいつもこの考えがちらつくんです。
その結果、さっき書いたような願い事をいつも書くことになるというわけです。思い返してみると、私がここ最近で明確な願い事を書いたのは今年の七夕を除けば受験の結果待ちの時の神社へのお参りくらいです。約一年半の間、願い事をする時に私は未来へ向けてふわふわとした空気を投げかけていたんです。大学受験よりも前だと多分高校受験くらいですかね。自分のことではありますがここまで来ると「なんだかなぁ……」って思ってしまいます。
願いが叶ってほしいとは思います。でもその叶うっていうのは、自分たちの力の及ばないところ(例えば運命とか)を巻き込んで願いが叶う方向へと世界が動いてほしいっていう願望なんだと思うんです。自分も頑張るから助けてっていうのも、どうにもならないから助けてっていうのも、自分じゃない誰か(もしくは何か)にお願いするみたいな。「願う」っていうのはそんなところがあるんじゃないかと思うんです。
世界中のみんなの願いが叶ってほしいと私は願います。
できれば平和な方向に願いが叶いますようにとも願います。
最後におまけで、寂しさを時折埋めてくれる誰かが現れたらいいなって願います。
大学の笹は三つ。きっと織姫・彦星・(あと多分)橋なんでしょう。三つ笹があるんだからこの三つの願いも叶うはず。
そう願って今日はここまで。
おやすみなさい。